旅 〜ロシア ハカス共和国〜

角田光代さんのエッセイを読むと、自分の旅についても記録を残したくなり、僭越ながら記憶を絞り出し、思い出を綴りたいと思います。

私の初めての海外旅行は大学を卒業した22歳の6月、ロシアのハカス共和国でした。そこで口琴のシンポジウムがあるので行ってみないか?と今では口琴の第一人者である直川礼緒さんに誘われたのきっかけです。1991年にソ連が解体され次々に独立した国が出来上がり、そんな中、ハカス共和国も自治州から共和国になった国でした。

ハカス共和国へは、週一便、水曜日に新潟空港からイルクーツクまで飛行機で行き、そこから列車の旅。つまり一旦行ったら、帰ってくるのも次の水曜日、、初めての海外、しかも情勢怪しいロシアということで、今生の別れ感があったのか、母が心配して新潟空港まで送ってくれたのを記憶しています。

飛行機は出発が遅れ、イルクーツクに着いたのは深夜、そこからタクシーに乗ってホテルらしき建物に着きました。ホテルらしき建物、、実は後から聞いたのですが、そこは市内の眼科病院。ホテルはべらぼうに高く、マフィアが占拠していて危ないとのこと、あえての眼科病院だったようです。そこに2泊ぐらいしたでしょうか、、、当時の記憶は曖昧ですが、とても清潔で(そりゃそうだ、病院だもの)ご飯のおいいしい「ホテル」でした。

ハカス共和国に行く前に、観光を兼ね、バイカル湖に案内していただきました。どこまでも、どこもまでも続く針葉樹林の間の一本道を四、五時間かけ車でひたすら走り、見えてきたバイカル湖は、湖の域を超え、もはや海。牛がゆったり歩き車道を阻んでいましたが、そこは動物優先。6月のまだまだ寒々しい空の下でしたが、のんびりした観光でした。

さていよいよハカス共和国に行く日、シベリア鉄道の切符を購入、多分外国人が利用する一等車では無く、現地の方々が利用する等級の列車に乗り込みました。私は二段ベットの上に箏を寝かせて乗せ、髪の毛13本の彼氏(箏の絃は13本です)がベッドを占領して困るわ、、なんて冗談を言いながら、これから行くハカス共和国がどんな所なのか想像を膨らませておりました。

シベリア鉄道はタイシェットまで、そこからモンゴルの少し上のハカス共和国まで鉄道が分岐されます。言葉が分からない私達は分岐点で何時に列車が出発するのか分からず、その間はトイレも利用できず、いつ列車が発車するのか分からないので食べ物を買いに行く事も出来ず、飲み物も控え、ただただひたすら空腹に耐えながら「食べ物しりとり」をして待っていました。

延々と同じような風景の車窓を眺め、ようやく無事ハカス共和国のアバカンに着き、泊めて頂いたのは、ハカス共和国の国会議員の家。旦那様は大学の教授だったようですが無職中、奥様が議員さんのお宅でした。国会議員のお宅、かなり裕福な家のようですが、トイレは水が流れにくく、シャワーもお湯があまり出ず、それが現実。でも現地ではとても立派なご家庭でした。

迎えてくれたファミリーはとても素敵な方々で、アリョーシャとアンドリュウシャというシャイな双子の高校生男子、そしてその頃、日本の大学に留学中の息子さんのいるご家庭。モンゴルの少し上に位置するハカスの方々はロシア人というよりは、顔がアジア人に近く、どこか懐かしいようなお顔立ちでした。

シンポジウムでは、箏という楽器や着物姿も珍しく、メディアの取材も来るほど、ようこそ歓迎ムード。多分当時の大学の教授レベルの美しい英語を話す通訳の方が付きっきりで通訳をしてくれ、現地でのコンサートや、現地のミュージシャンとの交流の場を作っていただきました。

コンサートやシンポジウムの合間に、ピクニックに連れて行って頂き、広い広い草原の中に、宇宙から降ってきたような巨大な石のサークル、食事前のお祈りは、森の神々に感謝の言葉を述べてからのウォツカでの乾杯、初めて本場のビーツで作ったボルシチ、ピロシキ(ピロシキの皮であるパン生地は、街の至る所で発酵させた状態でビニール袋に入って売っており、気軽に購入できる)を食べ、また葉物野菜がなかなか収穫できないお土地柄、ディルが大変貴重で、それを口にしたのも、このロシア旅行が初めてでした。

二週間の滞在が終わり、ハカスからサンクトペテルブルグに飛行機で飛び、そこから新潟に、、サンクトペテルブルグまでは直川さんとご一緒でしたが、そこからは一人旅、空港で言葉も分からず、まごまごしていたら、旅の神様降臨、とてもカッコイイ、ザ・ロシア人のイケメンがなんと日本語で私に声をかけてきてくれるではありませんか!ご自身は日本に留学経験があり、日本が大好き。しかも空港の職員ではないけれどアルバイトしている、、とのこと。新潟行きの手続きも荷物の運び入れも、全て彼がやってくれ、最後に「良い旅を」とウインク。

あまりにも強烈な初海外、今でも、この旅行のために在日本ロシア大使館に何度もビザを取りに行った事、食事の際に何で眼帯をしている人がこんなにいるんだろう、、という疑問、ほんの一部しか見れていないバイカル湖の大きさ、誰が運んできたんだろう、、草原で見た巨大石のサークル、現地で話した16歳のとても色気のある大人っぽい少女の憂いのある眼、ルーブル崩壊で1米ドル札を何十枚と用意し腹巻きで隠し、闇両替ですぐにお金を出せず慌ててトイレに駆け込み、私の汗で湿ったお札を警察に隠れてコソコソ両替した事、イルクーツク駅で列車に乗り込む際のアウェイな私達を見る現地の方々の目、ハカスの人々の自然を大切にする気持ち、ロシア語しか話せず、でもゼスチャーや気持ちで何となく意思疎通のできたホストファミリー、ホストマザーの「アリョシャ〜、アンドリュウシャ〜」と息子たちを呼ぶ声、、忘れられない旅でした。

ハカスで購入した自分へのお土産、白樺の皮で作った小物入れと髪飾り。私は髪はを伸ばしていませんが、これはどうしても誰にも譲れず、今でも私の宝物です。

ハカスの伝統的な衣装と、箏のような伝統楽器

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